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岐阜地方裁判所 昭和28年(タ)10号 判決 1956年10月18日

原告 林和夫

被告 林八代子

主文

原告と被告とを離婚する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

一、原告訴訟代理人は主文と同趣旨の判決を求め、その請求原因を次のとおり陳述した。

被告は福井達夫の媒酌により昭和二十年三月十五日原告と婚姻し、その届出をしたが、その後原告が精神に異状を来すや被告は原告に対する妻としての務めを怠り、昭和二十一年二月無断で実家に帰り、爾来今日に至るまで遂に婚家に足を踏み入れない。この間被告は昭和二十一年十二月独断で原告に対する禁治産宣告の申立をなし、同月二十日岐阜区裁判所においてその旨の決定を受けて被告自らその後見人となつたが、被告は実家に帰つたまま後見人の任務を尽さず、後見監督人の選任も怠つたので、翌二十二年三月二十二日親族会の決議により後見人を免ぜられ、後任後見人に訴外林うた(原告の実妹)、後見監督人に訴外西田茂が選任された。その後福井達夫その他知人が仲に入つて原告と被告が円満に協議離婚するよう努力し、再三に亘り原告が被告に財産を分与して両名が離婚することに話がまとまりかけたが、その都度被告の恣意により結局破談となつて解決に至らなかつたが、更に被告は実父奥村茂一の名義で林うた等が被告の人権を侵害したとして岐阜地方法務局に訴えたので、同局武藤事務官が調査に当つた結果その事実なしとの結論に達したが、同事務官の勧告斡旋により、昭和二十六年八月四日被告の代理人奥村茂一と、原告後見人林うた並にその夫林大三との間に「(イ)被告と原告と離婚するものとし、速かに被告から原告に対する離婚請求の訴訟を提起すること、(ロ)右判決確定と同時に原告は被告に財産分与として十三万円を支払うこと、」を骨子とする内容の示談が成立した。ところが奥村茂一はその後被告に代つて右財産分与の支払については強制力がないからとて右示談の撤回を求め、昭和二十六年九月岐阜家庭裁判所に林大三、同うた両名を相手方として後見人の更迭などを求める家事調停の申立をなし、この調停において調停委員会は被告に対し相当の財産分与を受けて原告と離婚するよう勧告し、被告もほぼこれを承諾したが、原告が精神病者であるため調停による離婚は出来ず、調停は打切られた。次で被告は昭和二十七年三月林大三同うた夫婦を相手とり(大三夫婦は原被告夫婦の養子となつていたので、)原被告夫婦と大三夫婦間の養子縁組無効確認の訴を当庁に提起し(昭和二七年(タ)第一号)、翌二十八年三月には原告をも相手どり右と同様の養子縁組無効確認の訴(昭和二八年(タ)第三号)を提起するなど、夫婦間の情愛を無視する行動を敢えてするに至つた。原告は今なお精神異状者であつて、前述の如く被告が昭和二十一年二月実家に帰つてからは、林大三同うた夫婦が原告の療養監護に当つているのであるが、その間被告は全然原告をかえりみず、一度の見舞すらしないのである。しかのみならず被告は昭和二十九年七月初旬原告方を訪れ、たまたま居合せた福井達夫に対し前非を詑び原告と婚姻を継続する考えのないことを告げ、原告方に残してあつた自己の夜具箪笥その他雑品全部を引取つた。右の如き被告の数々の行動は結局被告にこれ以上原告との婚姻を継続する意思がなく、ひとえに多額の財産分与の獲得を企図しているものと断ぜざるを得ない。

以上を要するに、被告は原告を悪意をもつて遺棄したものであり、仮に然らずとするも、既に述べた諸般の事情は原告と被告との婚姻を継続し難い重大なる事由がある場合に該当するから、原告は被告との離婚を求めるため本訴請求に及ぶ。

二、被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として次のとおり陳述した。

原告の主張事実中原告と被告とが昭和二十年三月十五日福井達夫の媒酌により婚姻したこと、被告が原告主張の日に、精神異状者である原告に対する禁治産宣告の申立をなし、その結果岐阜区裁判所において原告が禁治産の宣告を受け、被告がその後見人となつたこと、被告が昭和二十二年三月二十二日親族会の決議により後見人を免ぜられ、後任後見人に林うた、後見監督人に西田茂がそれぞれ選任されたこと、被告が原告の主張する養子縁組無効確認の訴を提起したこと、原告が今なお精神異状者であることは認めるが、福井達夫その他知人が仲に入つて原被告間の円満離婚につき努力がなされたことや、岐阜地方法務局において原告の主張する如き一応の示談が成立したこと及び岐阜家庭裁判所において原告の主張する如き調停手続がなされたことは、いずれも被告自ら関与したものでないから知らない。その他原告主張の事実は否認する。

原告と被告は昭和十九年三月頃事実上の婚姻をしたのであつて、被告はその後正式婚姻届出前である同年十二月頃原告の精神異状を知り、一旦は婚姻の望を絶つて実家に帰つたが、原告の父近之助と福井達夫とが一再ならず被告に原告との婚姻の継続を懇望し、被告の将来についても責任を持つと言明したので、被告は遂に原告と生涯を共にすべく入籍を決意して婚姻の届出をした次第である。爾来被告は原告の面倒を見ることを自己の宿命でもあり義務でもあると観念し、青春を捨てて原告を守り対外的には原告を禁治産者にする必要があると判断してこれが裁判上の手続をとり、もつて家産の保持に備えるなど、なすべき手段を尽し、家庭は極めて平和安泰であつたが、昭和二十年十一月七日近之助が死亡した後原告の妹林うたが、夫大三と共に時々原告と被告との家庭に乗り込んで来て、被告に対し原告との離婚を慫慂し、その揚句原告を岐阜市に拉し去つてしまつた。しかのみならず林うた同大三夫婦は昭和二十一年二月頃被告のもとに来て原告の実印を渡せと迫り、被告がこれを拒むや被告に対し暴力を加えるの挙に出たので、これを見兼ねた福井達夫の勧告により被告は一旦実家に身を寄せるの止むなき事態となつた。元来うたは近之助の二女であつて、昭和十五年七月十一日夫大三を婿養子として迎えて事実上分家し、岐阜市加納に新家庭を持つたのであるのに、うた夫婦は有合印を使用し、原被告夫婦が、うた夫婦を養子とする旨内容虚偽の養子縁組届出書を作成し、これを昭和二十一年二月二十五日所轄戸籍吏に提出したので、被告は右養子縁組は被告の意思に基かないから無効であり、仮に無効でないとしても、うた夫婦は被告より年長であるから取消さるべきであるとして、うた夫婦を相手に養子縁組無効確認の訴を提起したのである。

これを要するに、被告はうた夫婦の妨害によつて原告と生活を共にすることができないのでやむなく実家に帰つているに止まり、この妨害なかりせば被告は原告を守つて夫婦生活を貫く決意であることは、原告が精神異状者であることを知つた後敢えて婚姻の届出をしたことによつても明白である。以上の次第であるから、被告が原告を悪意で遺棄したものでないことは勿論、その他何等離婚原因は存在しない。よつて原告の請求は失当である。

三、原告訴訟代理人は右被告の主張に対し次のとおり陳述した。

原告と被告とが婚姻の届出に先立ち、昭和十九年三月頃事実上の婚姻をしたこと、原告の父近之助が昭和二十年十一月七日死亡したこと、原告の妹林うたが昭和十五年七月十一日夫大三と婿養子縁組婚姻をしたこと、原被告夫婦とうた夫婦間の養子縁組の届出が昭和二十一年二月二十五日なされたことは認めるが、その他の事実はすべて争う。

原告は亡近之助の法定の推定家督相続人であつたが、十四、五歳の頃から既に精神に欠陥が顕われたので、近之助とその妻たけは林家の将来を慮り、原告の妹うたに婿養子として大三を迎え、事実上原告の後見人たらしめた。しかるに昭和十八年四月たけが死亡し、うた夫婦も大三の勤務の関係上岐阜市に別居していたので、近之助は原告を不びんに思い、被告を原告の嫁に迎えたが、その後原告の病状は一層亢進したので、近之助は更に林家の将来に万全を期さんがため、死亡直前うた夫婦を原被告夫婦の養子とすべく関係者並に親族一同に申残し、被告もこれに異議がなかつたので、その旨正式に届出がなされたもので、右養子縁組はもとより無効のものでない。

四、<証拠省略>

理由

被告本人の供述によれば、原告と被告とは昭和十九年四月三十日挙式の上事実上の婚姻をなし、翌二十年三月十五日婚姻の届出を済ましたことが認められる。

そこで原告主張の離婚原因について判断するに、いずれも成立に争いのない甲第一乃至第三号証、同第九第十号証の各一、二、同第十一号証乙第一号証、同第三号証に、証人武藤真一、林二郎三郎、林大三、奥村逸子、奥村茂一(一部)の各証言及び被告本人(一部)、原告法定代理人福井達夫本人の各供述と弁論の全趣旨とを綜合すると、原告は既に小学校在学中から精神に異状が見られ、大垣工業学校に入学したが間もなく退学して療養の傍父の仕事を手伝つていたが、その後精神病が亢進して昭和十八年頃遂に入院加療をするに至つたところ、一旦退院して被告を妻に迎える頃は幾分快方に向つていたが、昭和十九年十二月頃になつて被告は原告の病状を知り、将来に不安を感じて一旦原告との離婚を決意して無断で実家に帰つたものの、原告の父近之助等の懇望もあつて右決意を翻し、婚家に帰つて婚姻の届出をしたこと、その後間もなく原告は病状が悪化して社団法人岐阜精神病院(日野病院)に入院し、昭和二十年十一月七日原告の父近之助が死亡したため原告は一度帰宅したが、葬儀が済むや再度同病院に入院し、その間被告は原告の妹林うたといさかいが生じ、それが動機となつて昭和二十一年二月八日頃実家に帰つたこと、被告は原告の親戚縁者とは連絡することなく、実父奥村茂一の指図によつて岐阜区裁判所に原告に対する禁治産宣告の申立をなし、昭和二十二年一月その旨の決意を得、自らその後見人となつたが、同年三月親族会の決議により後見人を免ぜられたこと、かくするうち媒酌人である福井達夫等が仲に入り原被告間の婚姻解消につき被告の父茂一と接渉するなど努力がなされたが成功するに至らず、又昭和二十六年八月四日岐阜地方法務局において被告の父茂一、林大三、福井達夫等出席のもとに同局武藤事務官の斡旋により「(イ)原告と被告とは離婚することとし、被告から離婚請求の訴訟を提起すること、(ロ)右判決確定と同時に原告側から被告に財産分与として十三万円を支払うこと」を骨子とする一応の話合いが成立したが、これ亦実行に移されずに終つたこと、又かねて原被告が林うた夫婦を養子とする旨の戸籍上の届出がなされていたが、被告はうた夫婦を相手どり当庁に右養子縁組無効確認の訴を提起し、昭和二十八年八月二十一日右縁組を取消す旨の判決を受け、この判決に対しうた夫婦から控訴、本件被告から附帯控訴がなされた結果、昭和二十九年六月頃名古屋高等裁判所において「原判決を取消し、前記縁組の無効を確認する」旨の判決があつたこと、被告は実家に帰つてから今日まで原告との関係の解決一切を挙げて実父茂一の一存に委ね、自らは原告との正常な生活を回復することに些かも努力を払わず、寧ろ傍観的態度をすら取り、原告は昭和二十一年十月頃退院して自宅において妹うたの世話となつているのに被告は遂に一度も原告の許を訪れず、昭和二十九年中に自己所有の道具類全部を原告宅から搬出し、現在においては実家の近くに妹幸子と一戸を構えて自活の道を立ていることが認定される。(証人奥村茂一の証言及び被告本人の供述の各一部に右認定に反する部分があるがこれは措信しない。)

右の如く被告は原告の許を去つてから既に十年以上の歳月を経ているのにその間原告と生活を共にすべく何等の努力も払わず、漫然周囲のなすに任せ、寧ろ傍観的態度をすら取つているのであつて、元来原被告間の事実上の夫婦生活は一年足らずの短期間に止まり、その後の長い空白期間と、原告が心神喪失者である事情とを併せ考えれば、被告の原告に対する愛情はまつたく冷却したと観るのが自然である。

以上認定の諸事情からすれば、被告には既に原告との婚姻を継続する意思がないものといわねばならない。もつとも被告が婚家を去つたのは、うた夫婦との不和が原因であり、然もその後原告はうた夫婦と生活を共にしているので、被告は原告の許に復帰することを躊躇する気持もあるであろうが、そのような事情があるとしても、被告が病身の原告に妻としての愛情を捧げ、真に原告との正常な生活を貫こうとする決意があるならば、周囲の障害を排除して原告の許に復帰出来る環境を作るよう積極的努力がなされて然るべきであるのに、被告は単に戸籍上うた夫婦をして原被告の養子たる地位を失わしめるため養子縁組無効確認の訴を提起したことを除き、十年もの永い期間中かかる一片の努力を払つた形跡も認められないのである。以上の如く原告との婚姻継続の意思を放棄し、十年間も原告をかえりみない事実から判断すれば、被告は原告を悪意をもつて遺棄したものと断ぜざるを得ない。即ち右事実は民法第七百七十条第一項第二号の離婚事由に該当することが明白である。

しからば被告との離婚を求める原告の本訴請求は理由があるものというべく、よつてこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小渕連)

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